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戦時中のポーランド外交 | Instytut Polski w Tokio1-12 / 13-24 1.条約の効力 私たちは同盟国を信頼していました。戦争時代に突入したとき、ポーランドは、1920年代初めからヨーロッパの協力国たちと結んできた諸条約の効力を信じ込んでいました。そうした合意書のうちでいちばん早いのは、1921年2月19日付ポーランド・フランス条約でした。両国外務大臣アリスティード・ブリアンとエウスタヒ・サピェハがパリで調印した条約は、新生ポーランド国家にとっては、ドイツからの脅威があった場合に、その地位を安定させるための要素でした。付属の秘密軍事議定書は、ドイツ侵攻に際して、両国は互いに「効果的で迅速な援助」を行うことを想定していました。2週間後にブカレストで調印され、1926年に延長された相互防衛援助に関するポーランド・ルーマニア協定は、外部からのあらゆる攻撃に対してポーランドとルーマニアに相互防衛義務を課すものでした。 ソ連をポーランドの同盟国と認めるのは困難ですが、同国は、1932年7月25日に締結された不可侵条約の調印国でした。そこには、両国は「相互関係における国家政策としての戦争を放棄し、あらゆる暴力行為乃至はどちらかの国のもう一方に対する侵攻を控える義務を相互に課した」と記されています。1934年5月、不可侵条約は1945年12月31日まで延長されました。すなわち、ソ連軍がポーランド東方地域を侵略した1939年9月17日において、無条件に有効でした! 大戦勃発直前にポーランドの安全保障にとって、鍵となる役割を担っていたのは、ポーランド・ドイツ関係が崩壊の危機に瀕していた時代に、急遽取り決められた、ポーランド・イギリス相互援助条約でした。合意書は、ドイツが条約調印国のいずれかに侵略した場合に、ただちに相手国への軍事的援助を与えることを想定していました。 エドヴァルト・ラチンスキ大使と英国外務大臣ハリファックス伯爵が証印・署名した、1939年8月25日付ポーランド・イギリス相互援助条約への秘密議定書テキスト。 2.ベック首相の暗号電報ついに、戦争が! 1939年9月1日、ドイツによる攻撃の直後から、ポーランド外交部の活動は、イギリス・フランスとの同盟関係に含まれている決定事項の実現に集中しました。最重要課題に取り組んだのは、9月1日早朝7時を前に、ユゼフ・ベック大臣が暗号電報を宛てた、駐ロンドン大使エドヴァルト・ラチンスキと駐パリ大使ユリウシュ・ウカシェヴィチでした――「1.大使にお願いする――大使が信任状を捧呈した国の政府に通告してください。『連合国政府が承知しているところの、英国発案の計画において、ポーランドは協力したにもかかわらず、独軍は早朝にポーランド領を攻撃し、同時に空軍は多くの土地を爆撃した』と。2.ポーランドの独立と名誉を最後まで断固守ろうとするポーランド政府は、己れの確信を表明する――『既存諸条約に則り、ポーランドはこの戦闘において、連合国軍の即時援助を受け取るだろう』と。」英国とフランスは、己れの義務を実現し、9月3日にナチス・ドイツ第三帝国に宣戦布告しました。遺憾ながら、ポーランドは期待していた軍事支援を受けることはありませんでした。英仏軍は、対独軍事行動を始めなかったのです。 駐ハーグ ポーランド共和国公使館暗号日誌。「ドイツによる侵攻を現地政府に通告すべし」との指令、その他が記された、ベック大臣からの9月1日付暗号電報が見える。同一内容の暗号電報は、他のポーランド大使館・公使館にも届いた。 3.リプスキ大使、命懸けで使命を遂行する戦争勃発後の、駐独(ベルリン)ポーランド外交代表部、その長であるユゼフ・リプスキ大使と、その他、ナチス・ドイツ第三帝国に勤務していた外交官たちの運命やいかに? ドイツによるポーランド攻撃後、9月3日に、リプスキと駐ベルリン大使館・総領事館職員は、コペンハーゲンに避難しました。彼はここで、必死の行動を決断しました。ポーランドへの帰国を決め、戦争勃発直前の数時間におけるベルリン情勢を自ら伝達するために、戦争の混沌とした状況にもかかわらず、ベック大臣を探し出すことにしたのです。可能なあらゆる移動方法を利用して、ストックホルム、ヘルシンキ、タリン、リガ経由で、9月9日にヴィリニュスに到達しました。そこから、バラノヴィチェ、ルヴネ、ドゥブノを経て、クシェミェニェツとクティに着き、ポーランド政府要人がポーランド・ルーマニア国境を越える前に、かろうじて、自ら外務大臣に報告を行いました。その後、ワルシャワに戻ることを希望しましたが、不可能であるとわかりました。リプスキ大使の戦争中のその後の運命もまた、際立ってドラマティックに転変していきました。9月18日にルーマニアに到着、そこからフランスに渡り、志願一兵卒として、結成中だったポーランド軍に応募しました。コキエンダンの軍事訓練キャンプで士官学校を修了し、ドイツ軍のフランス攻撃の後、第一擲弾兵師団で戦いました。ドイツ軍によって捕虜にされると、アルザスの収容所を脱走し、フランスとスペインを経由して、ロンドンにたどりつきました。少尉に昇進し、1940年11月から1946年9月まで、三代の軍指揮官――ヴワディスワフ・シコルスキ、カジミェシュ・ソスンコフスキ、ヴワディスワフ・アンデルス――の下で、政治顧問兼ポーランド外務省連絡将校を務めました。 指揮官顧問だったユゼフ・リプスキ(右)――1943年11月13日、カイロ。アントニ・シマンスキ中尉との会談中。シマンスキは、1939年当時、駐独(ベルリン)ポーランド共和国大使館駐在武官、その後、ドイツ軍の捕虜となり、ポーランド軍とともにソ連を出国した。カイロでの会談は、両外交官にとって、1939年9月以来の再会だった。 4.グジボフスキ大使が受け取らなかった覚書 9月17日、ドイツ侵略軍と戦闘中のポーランド共和国は、背後への一撃を受けました。早朝、およそ50万の赤軍部隊兵士が、ポーランドの東部地帯に侵入しました。ソ連はこれによって、1939年8月23日に、ドイツ第三帝国とソ連の外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップとヴャチェスラフ・モロトフが調印した、独ソ不可侵条約への秘密議定書に記されていた、勢力圏を東方に拡大する、己れの政治的目論みを実現したことになります。侵略開始の間際、午前3時に、ソ連外務人民委員代理ウラジーミル・ポチョムキンが、駐ソ(モスクワ)ポーランド共和国大使ヴァツワフ・グジボフスキを召喚し、赤軍のポーランド侵入を正当化する覚書を手渡そうとしました。大使は、そこに記されていた「ポーランド国家消滅せり」との根拠を否認し、文書受領を拒否しました。覚書のテキスト――ブカレストにおけるポーランド共和国大使館の横のつながりによって、駐ルーマニア露外交官から入手――は、9月17日の正午ごろ、ポーランド・ルーマニア国境近くのクティに留まっていたベック大臣に届きました。大臣は大使の行動を認め、4つのポーランド外交代表部――駐モスクワ大使館、駐キエフ並びにミンスク総領事館、レニングラード領事館――職員にソ連出国を指示しました。避難の妨げになったのは、ソ連政府の決断でした――グジボフスキ大使の外交特権は容認したものの、それ以外の外交官に対しては否認したのです。西側諸大国の大使たちの介入を受けて、ロシア側は立場を変更し、ポーランド人に出国ビザを発行しました。ポーランドの外交職員がソ連を出国できたのは、ようやく10月10日になってのことでした。努力と介入を重ねたにもかかわらず、駐キエフ ポーランド共和国総領事のイェジ・マトゥシンスキを探し出すことはできませんでした。彼は、内務人民委員部によって逮捕・虐殺されたと推測されています。「私たちの国は、侵略という事実そのものによって、すでにロシアと戦争状態にある。(……)戦争状態を現出させるのに、公式の宣戦布告は必要条件ではない。1904年の日露戦争、1939年のポーランド・ドイツ戦争は、その古典的実例である」――数か月後、ポーランド・ソ連関係の現状について、元外務大臣ヤン・シェムベクはこう述べました。 駐ブカレストポーランド共和国大使館の電話電報――1939年9月17日付ソ連覚書のテキスト 5.ルーマニアの陥穽 9月17日の23時ごろのことです――国境のチェレモシュ川にかかる橋(クティ町)の橋を渡って避難する群衆の間を、車列が走り抜けました。イグナツィ・モシチツキ ポーランド共和国大統領、フェリツィヤン・スワヴォイ=スクワトコフスキ首相、ユゼフ・ベック大臣など大臣一行、外務省官吏、ポーランドで信任された外国人外交官の一団が、ポーランド共和国領を離れ、ルーマニア領に入ったのです。ポーランド共和国政府高官の期待は、ルーマニア側が、国内を通り抜けてのフランス到達を可能にしてくれることでした。しかし、現実はそうなりませんでした。ルーマニアが中立国であることと、ドイツ側からの威嚇を根拠にあげて、ブカレストの政府は、ポーランドの指導的政治家全員を、当初はその先の旅路を用意すると欺き、次に拘留することに決めました。大統領、内閣、総司令官は、活動の可能性と移動の自由を奪われました。経験豊富な外交官で、1939年の九月戦役時には国庫省次官の地位にあり、戦争中には外務省指導部メンバーだったカイェタン・モラフスキは、拘留の事情を次のように回想しています――「夜中の一時に、山間の小保養地スラニクに着いた――オフシーズンで人気がないのか、それとも私たちを泊めるために意図的に空けてあったのか。(……)トランクを開く前に、私たちはルーマニア地図に飛びついた。中継宿泊所として私たちに振り当てられた場所は、どう見ても、コンスタンツァあるいはその以外の港湾へ通じる道には位置していなかった」1939年9月18日から30日の間、ポーランド共和国大統領、その他の国家指導層と連絡をとるという重要な役割を担ったのは、駐ルーマニア ポーランド共和国大使ロジェ・ラチンスキでした。彼は、拘留された人たちとも、フランスにあって国外におけるポーランド共和国政府主要機関再建に努めていたポーランド人政治家たちとも、連絡をとれる唯一の人物でした。ラチンスキの個人的な尽力によって、大統領の地位をヴワディスワフ・ラチキェヴィチに譲るよう、イグナツィ・モシチツキに働きかけることに成功しました。それによって、ヴワディスワフ・シコルスキ将軍を首班とする内閣の組閣、そして憲法に基づいたポーランド国家権力の一貫性の維持が可能になりました。 国境のチェレモシュ川にかかる橋(クティ町)の橋 6.新しい外務省1939年10月1日にヴワディスワフ・シコルスキ将軍がパリで組閣した政権において、外務大臣の任務に就いたのは、アウグスト・ザレスキです。新大臣は外交の世界ではとてもよく知られた人物でした。戦前は、スイス、ギリシャ、イタリアの外交代表部を率い、1926-32年の時期には、11政権連続してポーランド共和国外務省のトップの地位にありました。彼は、調印者の名前から、シコルスキ=マイスキ協定と呼ばれているポーランド・ソ連協定の締結に抗議して辞任する1941年7月まで、外務大臣の地位に留まりました。ザレスキは、本協定の決定事項、交渉に至る方法、そして会談において外務省の役割が軽視されたことに抗議したのです。外務省の職務運営は容易な課題ではありませんでした。シコルスキ将軍を首班とする政権の成立から2か月近くの間、外務省の本拠地は駐パリ ポーランド共和国大使館でした。外交代表部の混雑した執務室には、当時、他の国家政府機関も同居していました。状況が若干改善されたのは、1939年11月22日に、外務省が全政府とともに、パリの南東約300キロにあるアンジェに移ったときでした。フランス政府は、ドイツ国境から離れていることと、アンジュー州がポーランド史所縁の土地であることから、ここへの移転を指示しました。安定した時代は、たったの7か月しか続きませんでした。ドイツ第三帝国がフランスに攻撃をしかけ、ドイツ攻撃が急速に拡大すると、ポーランド政府は、フランス政府の指示に従い、6月14日に、ボルドーと大西洋岸に近いリブルヌに移りました。この市に短期間滞在した後、ヴワディスワフ・ラチキェヴィチ ポーランド共和国大統領、ザレスキ大臣を含む政府首脳など、要人グループは、英国巡洋艦〈HMS「アリシューザ」〉に乗船し、ロンドンに避難しました。 1939年12月、アンジェにおける閣議。左はヴワディスワフ・シコルスキ首相、ユゼフ・ハレル大臣、ヘンリク・ストラスブルゲル国庫大臣、アウグスト・ザレスキ外務大臣。 7.「ルーマニアとハンガリーにおける避難民の状況」1939年9月の戦闘行為の最中、ポーランド・ルーマニア国境を、約2万人のポーランド民間人が越えました。避難民の大半にとって、基本的な援助が与えられる最初の地点となったのは、チェルニョフツェ(ルーマニア名チェルナウツィ)のポーランド共和国領事館でした。ここで指揮を執っていた人々も、避難してきた国家公務員でした。ルーマニアに駐在していたポーランド代表部――駐ブカレスト ポーランド共和共和国大使館領事部(前述)など――が直面した基本的課題の一つは、避難民に身分証明書を発行することと、可能な限りで、わずかな財政援助を与えることでした。ルーマニアには、3, 600名の将校を含む、約3万人のポーランド軍兵士も到着しました。彼らは、政府によって、数十の抑留者収容所に入れられました。ポーランド共和国大使館にポーランド共和国政府被難民問題代表ミロスワフ・アルチシェフスキが到着し、彼らの保護にあたりました。1939年九月防衛戦役終了後には、ハンガリーにも、相当数の民間人・軍人が現れました――その数は、およそ10~14万人に上ります。現地政府は総じて避難民に好意的な態度をとり、彼らのために105か所の抑留者収容所を開設しました。駐ブダペスト ポーランド共和国公使館のおかげで、留め置かれたポーランド人の大半は強制滞在の場所を離れることができました。ハンガリー政府は、抑留者の大量出国を黙認しました。1939年秋と1940年春に、ポーランド代表部は、約21, 000名の軍人と6, 000名の民間人のフランスへの避難の組織的実行に成功しました。ルーマニアとハンガリーでの救援活動は、1940年と1941年に、両国に置かれていたポーランド代表部がドイツによって強制的に閉鎖されるまで、続きました。 1939年10月に、チェルニョフツェ(ルーマニア名チェルナウツィ)のポーランド共和国領事館で発行された旅券 8.
最後の国際連盟総会 第一次世界大戦の結果として構築された集団安全保障機構は、現実には、非効果的で短命でした。ウッドロー・ウィルソン米国大統領の発案で1920年に発足した国際連盟の努力をもってしても、1939年に新しい対立が勃発するのを防ぐことはできなかったのです。1939年12月にジュネーブで開かれた、最後の国際連盟臨時総会には、ポーランド代表も出席しました。議題は、ソ連のフィンランド攻撃によって生まれた情勢でした。国際連盟総会は、その前のドイツによるポーランド侵攻について議論を行なっていなかったので、12月の総会は、シコルスキ将軍の政権にとっては、国際連盟の場でこの問題についての立場を明らかにする最初の機会となるはずでした。遺憾ながら、西側大国の慎重な姿勢とスイス政府の小心翼々たる政策から、ポーランドがドイツ第三帝国に対する断固たる弾劾を表明することはできませんでした。こうした状況下でポーランド代表団を率いたジグムント・グラリンス機外務大臣は、12月14日に行った演説において、ポーランド・ドイツ問題にはあえて言及せず、あらゆる侵略戦争への総括的な非難に集中し、攻撃されたフィンランド人への連帯を表明しました。しかしながら、彼の真意は聞き届けられ、演説は幅広く理解されました。総会に出席し傍聴していた中に、このためにジュネーブまで足を運んだ、高齢のイグナツィ・ヤン・パデレフスキがいました――国際世論にとっては、20世紀初めから一貫して、ポーランド独立を目指す不屈の戦いの象徴的存在でありつづけた人物です。 12月の総会で、国際連盟総会は、ソ連を加盟国から除名する決議を下しましたが、その事実は、第二次世界戦のその後の経過にいささかの影響も及ぼしませんでした。 国際連盟総会におけるポーランド代表団――シルヴィン・ストラカチ国際連盟ポーランド代表(右から2人目)、カジミェシュ・トレンビツキ駐ジュネーブ ポーランド共和国総領事(3人目)、イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(4人目)、ジグムント・グラリンスキ(5人目)、ヤン・モゼレフスキ元駐スイス ポーランド共和国公使(6人目)、スイスにおけるポーランド赤十字代表。 9.
世界のライブカメラ
諦めたくなかった「教える」仕事。ポーランド在住ピアニスト・須藤梨菜に訊く、オンラインレッスンの魅力(PR)インターネットの普及により、かつては考えられなかった活動を実現できる世の中になりました。 今回インタビューするのは、ポーランドに住みながら、オンラインレッスンを通じて日本人の生徒さんにレッスンをしているというピアニスト・須藤梨菜さん。 オンラインレッスンの魅力・難しさとは? などインタビューを通して、インターネットを活用した「音楽の楽しみ方」について考えると同時に、須藤さんが暮らすポーランドの魅力もお届けしたいと思います。 須藤 梨菜(すどう りな) 昭和音楽大学演奏家Ⅱ卒業。ポーランド在住。第26回ピティナ・ピアノコンペティション全国決勝大会G級銀賞・王子賞他受賞、第5回浜松国際ピアノコンクール第4位、第7回ダブリン国際ピアノコンクール(アイルランド)日本人最高位かつ最年少第5位入賞ほか受賞歴多数。また2010年、2015年ショパン国際ピアノコンクール出場(ポーランド)。 6歳でデビューを果たし、プロの道へ ―まずはじめに、ピアノを始めたきっかけを教えてください。 「生まれたときから、3つ上の姉がピアノを練習しているのを見ていたので、自分も自然と興味をもつようになって始めました。 本格的に始めたきっかけは、4歳のときに出たJOC(ジュニアオリジナルコンサート)という作曲のコンクールです。姉は作曲の先生にもついていたのですが、私も同行していたところ『梨菜ちゃんも作曲してみる?』と勧められて。 手探りで曲を作って、先生にアドバイスをもらいながら挑んだところ、全国大会まで進むことができたんです。そのときにある先生が声をかけてくださって、プロを育成するためのマスタークラスに入ることになりました。と言っても当時は幼すぎて、お誘いを受けたときにわけもわからず『やるー!』と答えたような形なのですが(笑)」 須藤さんが5歳のとき。ピアノに向かう眼差しは真剣そのもの ―プロを育成するようなクラスだったら、練習は厳しかったのではありませんか? 「そうですね、すごく厳しくていやになるときもありましたが、じゃあ練習をやめる? と聞かれると、そういう決断には至りませんでした。負けず嫌いだったのもありますし、純粋に音楽が好きだったというのももちろん大きいです。 デビューは6歳のときで、指揮者の山本直純さんとの共演で、オーケストラとキラキラ星を演奏しました。その後はずっと、コンクールとコンサートの日々です」 ―高校卒業後は上京して音大へ進学されました。ここまで、音楽の道に進むことに一度も迷いは生まれなかったのでしょうか。 「実は、中学校のときにスランプに陥りました。 それまでは、寝るか食べるかの時間以外はずっとピアノを練習していたのですが、中学進学を期に母が練習から離れたんです。そうしたら、練習の仕方がわからなくなり、ピアノを楽しめなくなってしまいまして…。 そのエネルギーが別のところに向いたのか、今度は “学業のほうの勉強” がおもしろくなってきて、進路についても1年ほど迷いました。 結局音楽の道を選んだのは、やっぱり音楽が好きという気持ちに加え、本番の空気の中、ホールで弾く感覚が本当に好きで、それが忘れられなかったから。また、ちょうどその頃に著名なピアニストのコンサートを聴きにいったところ、すごく心を動かされて、やはり舞台に戻りたいと思ったんです」 ―なるほど…。ところで、お母様が練習に付き合ってくれていたとのことですが、お母様は音楽をされていた方なのですか? 「いえ、母は音楽を学んでいたわけではないのですが、わたしの演奏が機械的にならないようにと、メロディを歌うことでフレージングなどの感覚を教えてくれていました。これは今でも本当によい勉強になるなと思って、教える際や勉強の際に取り入れています」 ポーランドへ渡り、オンラインレッスンと出会う ―ポーランドには2年前から移住されたのですよね。 「はい。大学卒業後に地元へ戻り、演奏活動や講師活動をしていましたが、個人的な事情でポーランドへ渡ることになりました」 ポーランド最古の都市のひとつで、中世ポーランド王国の最初の首都「ポズナン」 ―須藤さんはオンラインでさまざまなレッスンを受講できるサービス『Cafetalk』を通じて世界中の方にピアノレッスンをしていらっしゃいます。なぜオンラインレッスンを始めたのですか? 「日本で元々ピアノ講師をしていたので、その仕事を続けたいと思っていましたが、言葉の壁もありこちらで生徒さんを探すのには少しハードルを感じていました。そんな矢先に、知人からの紹介で『Cafetalk』を知り、これだ! と」 ▼Cafetalk 紹介動画 ―生徒はみなさん、日本人なのですか? 「そうですね。日本に住んでいる日本人の方だけでなく、海外に住んでいる日本人の生徒さんもいらっしゃいます。たとえばご家族の仕事の都合で海外へ来たけれども、レッスンは日本語で受けたいだとか、海外に住んで日が浅いためにどの先生についていいかわからないとお悩みの場合などに需要があるようです」 ―実際レッスンを始めてみて、いかがですか? メリットやデメリットを感じたと思うのですが。 「オンラインレッスンのメリットは、思い立ったときにすぐレッスンを予約できること。お互いの都合さえ合っていれば、『今夜急に予定がなくなったからレッスン受けたい!』といったことも可能です。また、移動時間が必要ないため、少しの空き時間にもレッスンを入れられる点、お子さんにレッスンを受けさせたい場合、お母様は送り迎えの必要なく、家事をしながら見守ることができる点などはかなり大きなメリットなのではないでしょうか。当然講師にとっても、予定を立てやすいという点はありがたいです。 デメリットは、これは講師目線ですが、生徒さんのからだに直接触れることができないため、手の形などを直したいと思った際に少しやきもきします。けれど今はWebカメラの性能もよいですし、手元をアップにして映して見本を見せることで十分教えることができるので、問題にはなりません。オンラインレッスンという形に合った方法でお教えすればよいだけなので。生徒さんが小さいお子様である場合、お母様にサポートしていただくこともあります」 須藤さんのレッスン環境 ―「教える」ことと「演奏する」ことはまったく違うと思うのですが、演奏とは違うやりがいやおもしろみはどんなところにありますか? 「生徒さん一人ひとり、目標も習熟度もまったく違って、ひとつとして同じレッスンがないというところです。 生徒さんには小さいお子さんも多いのですが、たとえばまったくピアノを弾いたことがないところから始めた子が発表会で堂々と演奏している姿を見たり、前回のレッスンで教えたことを次のレッスンでできるようになっていたりすると、レッスンしていてよかったなあと思います。また、プロをめざしているような生徒さんが、『(コンクールで)入賞しました!』と報告してくれたときは、自分の勉強してきたことがレッスンで生かせたことに喜びを感じました」 ―お子さんにレッスンするのは、大人にレッスンするのとはまた違った難しさがありそうですね。 「ほめることでぐんぐん育つ子もいれば、負けず嫌いでちょっと刺激してあげた方が上達の早い子もいて、いかにその子に合わせたレッスンでモチベーションを引き出せるかというポイントは難しさでもあり、やりがいでもあります。それを見極めるため、レッスン中の何気ない言葉や独り言なども聞き逃さないように注意しています。 あと、手の大きさなど物理的な成長とともにテクニックも上がっていくのを見守れるのも、お子さんならではのやりがいだと感じています」 音楽のあふれる国、ポーランドの魅力 ワルシャワのワジェンキ公園にあるショパン像 ―せっかくなので、須藤さんの暮らすポーランドの魅力をぜひ教えてください! 「まず音楽的なことでいうと、日本に比べて音楽がずっと身近な存在に感じられます。たとえば、クラシックのコンサートは日本では敷居が高く感じる人もいると思うのですが、こちらでは屋外でもフェスティバルのように気軽に演奏されていたり、空港にピアノが置いてあって自由に触ることができたり、教会でも音楽は演奏されていたりと、あちこちに “ミニコンサート” があふれています」 ―ショパンをはじめとし、すばらしい音楽家を輩出している国ですもんね…! 「各シティにいっぱいコンサートホールがあって、そのうちのひとつ、ワルシャワのナショナルコンサートホールはショパンコンクールが開催される場所です。こういった場所なので音楽を続けるにはとても刺激的な国だと感じています」 ワルシャワのナショナルコンサートホール ―音楽以外ではどうですか? 「歴史的な建物も多く、散歩しているだけでもすてきだなあと思います。国民性はすごくオープンで、家族がすごく近くて和気あいあいと助け合って暮らしています。ご近所同士も仲がよいケースが多いです」 「ショパンの心臓」がある聖十字架教会 ―ちなみに…食べ物はどんなものがあるんですか?(食いしん坊) 「日本人の舌にあうものが多いと思います! ピエロギという料理があるのですが、日本でいう餃子みたいなものですし、サボベというものはとんかつにそっくり。あとはジュレックをはじめとした、スープ類が有名です。ちなみに主食は、パンかじゃがいもです」 ポーランドで有名なスープ「żurek(ジュレック)」 ジャムなどが入った揚げドーナツ「pączki(ポンチュキ)」 ―すごく興味あります…! 「この夏のW杯をきっかけに(日本に)オープンしたポーランド料理のお店などもあるようですし、ぜひ行ってみてください(笑)」 ショパンにかける想い ―須藤さんはきたる、2018年10月11日(木)にカワイ表参道コンサートサロン「パウゼ」にてソロリサイタルを予定されています。こちらはオールショパンプログラムとなっていますね。やはり、ショパンの国にお住まいだから…? 「それもありますが、ショパンはなんといっても、小さいお子さんから年配の方まで幅広い層から愛されていますから。有名な曲も多いので、コンサートに行き慣れていない方でも聴きやすいと思いますし、お子さんの中には今まさにショパンを勉強中というケースも多いと思うので、勉強になればと」 ―ショパンの曲を演奏する難しさとはなんでしょう。 「テクニック的には、近現代のラフマニノフやプロコフィエフなどに比べれば挑戦しやすい。ですが、曲をいかに自分のものにして表現やコントロールをしていくかという点を突き詰め始めると、途端に難しくなるのがショパンの特徴だと考えています。これまでショパンコンクール含め、さまざまな機会で演奏してきましたが、『ものにできた』という感覚はなかなか得られるものではありません」 ―試行錯誤を重ねてきた成果が披露されるオールショパンプログラムということですね。ぜひ聴きどころを教えてください。 「3つのワルツや軍隊ポロネーズをプログラムに組み込んでいるのですが、これらのリズムをぜひ楽しんでいただけたらなと。特にポロネーズはポーランド特有のリズムで、軍隊ポロネーズはポーランドの国の雄大さが表現されていると言われている名曲。ぜひ注目していただきたいです。 ほかにも、ショパンのいろんな側面をお見せできるよう、プログラムは幅広くラインナップしています。一つひとつの楽曲の “違い” を伝えられるように準備しているので、たっぷりとショパンの世界をお楽しみいただければと思っています」 音楽を通じて伝えたいこと ―ずばり、クラシック音楽の魅力はなんだと思いますか? 「言葉がなくても、想いを伝えられるところ。ちょっとした場でも、ピアノを弾くことで誰かが喜んでくれたり、『いやなことがあったけれど幸せな気分になりました』と言っていただけたり。それによって自分自身も幸せを感じられますし、音楽は人に幸せを運ぶものだと感じています」 ―インタビューの序盤で、「本番の空気の中、ホールで弾く感覚が本当に好き」とおっしゃっていましたが、なかなかその境地に立つのは難しいように感じます。生徒さんも発表会などに立つ機会があるかと思いますが、何か伝えているポイントなどはありますか? 「間違えることを恐れるのではなく、音楽を通して自分自身を表現できることを楽しんで演奏するよう指導しています。もちろん緊張や不安・恐怖もあると思うのですが、その空気を経験して、乗り越えていった先に成長があるので、演奏の際はぜひ楽しむことだけを意識して、そのときの精一杯を出し切ってほしいと伝えています」 須藤梨菜 ピアノ・リサイタルのお知らせ コンサート概要 須藤梨菜 ピアノ・リサイタル 〜オール・ショパン・プログラム〜 2018年10月11日(木) 【開場】18:30 /【開演】19:00 会場:カワイ表参道 コンサートサロン「パウゼ」 全自由席 税込 3, 240円 ※3歳以下は入場できません お申し込み・詳細はこちらから。 プログラム ★華麗なる変奏曲 変ロ長調 op.
9%減(ポーランド) 2022年10月14日 2021年度 日本企業の海外事業展開に関するアンケート調査(2022年2月) 2022年3月31日 ポーランド進出法務事例集(2022年3月) 2022年3月8日 2021年度 海外進出日系企業実態調査(欧州編)(2022年1月) 2022年2月16日 欧州におけるNutri-Score制度をはじめとした容器包装前面表示制度(FOPL)に関する議論の動向調査(2022年2月) 2022年2月7日 2021年度 欧州・CIS投資関連コスト比較調査(2022年2月) ポーランド基本情報 概況・基本統計 祝祭日 ニュース・レポート 世界貿易投資動向シリーズ 動画レポート「世界は今」 最新の番組 シリーズ「ローカルの食×日本食品」 多彩な文化! ポーランド市場を攻める 特集 ジェトロの海外ビジネス環境調査 ビジネスの制度・手続き 輸出入に関する制度 WTO・他協定加盟状況 貿易管理制度 関税制度 為替管理制度 輸出入手続 貿易・投資相談Q&A:日本から輸出 貿易・投資相談Q&A:日本への輸入 日本からの進出に関する制度 投資促進機関 外資に関する規制 外資に関する奨励 税制 外国人就業規制・在留許可、現地人の雇用 技術・工業および知的財産権供与に関わる制度 外国企業の会社設立手続き・必要書類 備考 貿易・投資相談Q&A:日本から進出 ジェトロ主催・共催 セミナー・展示会 2023年03月06日 ~2023年03月10日 展示会・商談会 ライブ配信のみ AnimeJapan 2023×JETRO アニメコンテンツ・オンライン商談会 (オンライン開催) 2023年01月26日 ~2023年01月27日 【オンライン商談会】【事業者募集】ジェトロ商社マッチング(九州・沖縄) 2022年11月15日 ~2022年11月18日 欧州食品バイヤー招へい商談会(ポーランド/スロバキア) (水戸市、茨城県内各地) ジェトロが出展支援する展示会(年間予定) 見本市/展示会情報 ポーランドの見本市・展示会情報(J-messe) ジェトロの支援サービス ご相談の受付 輸出入や海外進出のご相談(無料) 模倣品・海賊版被害相談窓口 海外事務所での現地一般経済事情の提供 海外ブリーフィングサービス 海外での調査実施 海外ビジネスの新規展開・拡大 新輸出大国コンソーシアム 展示会・商談会への出展支援 EU・TPP諸国向けの食品輸出にかかる検査支援サービス その他 メールマガジン「ユーロトレンド」 メールマガジン「ジェトロEUトピックス」 その他の支援サービス一覧 2015年3月27日 有限会社エスク:独自技術で海外への道を切り拓く 該当する記事がありません ご相談・お問い合わせ 国内 海外ビジネスのご相談 国内事務所一覧 現地日系企業の皆様 ワルシャワ事務所 最寄りのジェトロ事務所にご連絡ください。 採用情報 調達情報 情報公開 お問い合わせ 利用規約・免責事項 個人情報保護について ウェブアクセシビリティについて サイトマップ ジェトロ・アジア経済研究所 日本食品海外プロモーションセンター(JFOODO) 各種自治体・機関等へのリンク集 Twitter 公式アカウント YouTube 公式アカウント ソーシャルメディア運用ポリシー Copyright (C) 1995-2022 Japan External Trade Organization(JETRO).
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武器をとれ! 駐仏シコルスキ将軍政権の基本課題の一つになったのは、ポーランド軍結成です。そのための活動において、鍵となる役割を担ったのが、外務省とポーランドの外交領事代表部でした。ポーランド政権は、部隊編成の過程で考慮に入れられる人材は、16万5千人~18万5千人の間と見積もっていました。戦力として、第一に期待されたのは、およそ50万人を数えた、フランスのポーランド人亡命者社会でした。新兵徴募を指揮したのは、新兵徴募中央局長に就任した、駐リール総領事アレクサンデル・カヴァウコフスキです。1940年6月までに、12万4千人が徴兵委員会に出頭し、そのうち10万3千人は武器を担う能力ありと認められました。 新兵徴募は、フランスが降伏した後、ポーランド共和国政権がロンドンに拠点を移した後も、続きました。さらなる徴兵の可能性を探って、ポーランド政府はこの問題について、アメリカ合衆国行政、カナダ政府と話し合いを始めました。とはいえ、新兵徴募の基本的な人材源は英国のポーランド人亡命者、そして、それよりもずっと小規模でしたが、南米諸国における志願兵募集でした。駐ロンドン領事館付属徴兵委員会の長に就いたのは、カロル・ポズナンスキ ポーランド共和国領事です。戦中を通じて、同委員会は、4万5千人のポーランド国民と外国人の願書を審査しましたが、そのなかには、女性志願軍務候補として、761名の婦人も含まれていました! 1939年10月、駐ロンドン領事館付属徴兵委員会事務所。前列右――ステファン・ドブロヴォルスキ少佐 10.英国の唯一の同盟国 1940年7月にフランスが降伏した後、ポーランドは現実的戦力を有する、英国にとって唯一の同盟国になりました。オランダ軍、ノルウェー軍は完全に降伏し、自由フランス軍はようやく編成が始まったところでした。一方、ポーランド空海軍兵と陸軍の一部、グレートブリテン島とパレスチナに首尾よく避難した、総計約2万7千人の兵士・将校は、対独戦闘に就くことができたのです。 この状況で、重要問題となったのは、英国との軍事協力の原則を調整することでした。1940年8月5日、両国首相と外務大臣は、ダウニング街10番地の英国首相官邸で、「ポーランド軍人は、「ポーランド兵は、主権を有するポーランド共和国の軍隊を結成する」ことを想定した条約に調印しました。ポーランド共和国軍部隊は、国民組織、記章、階級、司令部を維持することになりました。合意の政治的・宣伝的意義を考慮して、文書の調印には、条約交渉の参加者の一人エドヴァルト・ラチンスキ大使が回想の中で、「こうした状況における慣行にはない式法に則って行われた」と名づけたような、特に儀礼的な格式が付与されました。調印の証人となったのは、ウィンストン・チャーチル内閣の大臣一同――外務大臣ハリファックス卿の他、戦争・空軍・内務・植民地担当の各大臣でした。 条約調印の瞬間。着席者(左から)――ハリファックス卿(英国外務大臣)、エドヴァルト・ラチンスキ(駐英ポーランド共和国大使)、ヴワディスワフ・シコルスキ将軍(駐英ポーランド共和国大使)、ウィンストン・チャーチル(首相)、外務大臣(アウグスト・ザレスキ)、クレメント・アトリーとアーサー・グリーンウッド(英国戦時内閣閣僚)。(シコルスキの背後に立っている)アンソニー・イーデン(英国戦時内閣大臣)、(チャーチルの背後に立っている)ジョン・アンダーソン(内務大臣)、(白い背広を着て、ザレスキの背後に立っている)トーマス・インスキップ(植民地担当大臣)。 11.
仏は万全、FW好調イングランド - 千葉日報オンライン
ポーランド音楽出版社のオンラインヴァイオリン教育プロジェクト「ショパンの国の音楽」がスタートPWMの呼称で知られるポーランド音楽出版社(Polskie Wydawnictwo Muzyczne)は、クラシック音楽からジャズ、映画音楽に関する楽譜と書籍の出版を専門としているポーランド最大の出版社。特にショパンやパデレフスキを始めとする、自国ポーランドの作曲家の楽譜や書籍を世界各国に向けて提供しており、ポーランドで最も重要な音楽機関のひとつに数えられ、教育分野でも積極的な活動をおこなっている。 このたび、ポーランド文化・国家遺産省の助成を受けて新たに始動するのが「ショパンの国の音楽 ヴァイオリン版2022プロジェクト」。ポーランドの作曲家といえば、ショパンを除けば、日本で名前が挙がるのはシマノフスキ、パデレフスキ、ルトスワフスキ、ヴィエニャフスキ、そして一昨年に亡くなったペンデレツキといったあたりだろうか。2020年のピアノ・シリーズに続き、PWMは今回、日本やヨーロッパ諸国などを対象に国際的なキャンペーンを実施しており、知られざるポーランド作曲家による作品の普及、教育的レパートリーの拡充を目指す。 PWMのダニエル・チヒ社長 今回ヴァイオリン・シリーズに収められているのは、すでによく知られているヘンリク・ヴィエニャフスキ Henryk Wieniawski(1835-1880)、カロル・シマノフスキ Karol Szymanowski(1882-1937)や、近年、日本でも紹介される機会が増えつつあるグラジナ・バツェヴィチ Grażyna Bacewicz(1909-1969)の作品から、アダム・ヴロニスキ Adam Wroński(1850/51-1915)、クシェシミル・デブスキ Krzesimir Marcin Dębski(1953- )といった知られざるポーランド作曲家による、ヴァイオリンのための豊富な作品群。これらに加えてショパンのピアノ作品をヴァイオリン版に編曲した作品もあり、充実のレパートリーが並ぶ。また、初心者からプロフェッショナルまでさまざまなレベルの作品が網羅されており、多くの演奏家にとって魅力的なシリーズとなるだろう。(日本では残念ながら楽譜の出版はなし) 本プロジェクトではその一環として教育的コンテンツも制作されている。PWMの公式YouTubeチャンネルにて、全25本のレッスン動画が今年6月27日より随時公開中。日本語の字幕が用意されているものもある。ポーランド音楽のイニシアチブをとるヴァイオリニストや教育者による、実演を含んだ楽曲解説や、奏法などの技術的な解説が盛り込まれた充実したコンテンツとなっている。また、楽譜に収録されているすべての楽曲は、第13回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールで優勝したアガタ・シムチェフスカによって演奏され、こちらもYouTubeにて随時公開されている。 グラジナ・バツェヴィチ:ポーランドのワルツ|アガタ・シムチェフスカ(ヴァイオリン) さらに、今回のプロジェクトには、イギリス、イタリア、ドイツ、フランス、日本から5人が参加した。いずれも、教育活動も精力的に行っているヴァイオリニストたちで、日本からは、葵トリオのメンバーとして国際的に活躍する小川響子が参加している。 ショパン:ノクターン 嬰ハ短調(遺作)|小川響子(ヴァイオリン) ポーランドの出版社が提供する、同国の新たな作曲家たちと出会える貴重なプロジェクトにぜひ注目したい。 Chopin’s Landhttps://fromchopinsland.
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12 ★バラード 第1番 ト短調 op. 23 ★スケルツオ 第2番 変ロ短調 op. 31 ★3つのワルツ op. 34 第2番 変イ長調 op. 34-1 第3番 ロ短調 op. 34-2 第4番 ヘ長調 op. 34-3 ★軍隊ポロネーズ イ長調 第3番 op. 40-1 ★2つのノクターン op. 48 第13番 ハ短調 op. 48-1 第14番 嬰へ短調 op. 48-2 ★幻想曲 へ短調 op. 49 須藤 梨菜 プロフィール(全文) 昭和音楽大学演奏家Ⅱ卒業。ポーランド在住。 若干6歳にして、東京藝術劇場にて山本直純指揮・東京フィルハーモニー交響楽団とモーツァルトの協奏曲を共演、好評を博す。幼少の頃より、国内外のコンクールにおいて優秀な成績を収め、第6回エトリンゲン青少年国際コンクールAカテゴリー第1位、第26回ピティナ・ピアノコンペティション全国決勝大会G級銀賞・王子賞他受賞、「第2回福田靖子賞選考会」福田靖子賞(第1位)、第5回浜松国際ピアノコンクール第4位、第7回ダブリン国際ピアノコンクール(アイルランド)日本人最高位かつ最年少第5位入賞、ヒルトンヘッド国際ピアノコンクール(アメリカ)第3位、I Krystian Tkaczewski国際ピアノコンクール(ポーランド)第3位、また2010年、2015年ショパン国際ピアノコンクール出場(ポーランド)など、多数のコンクールにて上位入賞を果たす。 オーケストラとの共演も数多く、NHK交響楽団、読売日本交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、日本センチュリー交響楽団、セントラル愛知交響楽団、仙台フィルハーモニー管弦楽団、神奈川フィルハーモニー管弦楽団、クラクフ室内管弦楽団(ポーランド)など、国内外の主要オーケストラよりソリストとして度々招かれている。イタリア、ニュージーランド、ポーランド、フランス等および日本国内の各地にて数々のソロリサイタルおよび演奏会に出演、好評を博す。 宇都宮市市民賞、宇都宮市長特別賞、川崎市アゼリア輝賞を受賞。 提供:Cafetalk The following two tabs change content below.
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